父のこと

私の父は、80代です。

父は今年になって、難病を発症し、歩けなくなり、今は入院中で寝たきりです。

ここ最近、自力で食事も取れなくなり、急激に弱り、余命わずかとなりました。

70代後半までは、まだまだ元気だと思ってたけれど、

難病になるとは、家族の誰も思ってもなかったです。

父は若い頃は、空手で鍛えていたらしく、大きな病気も、持病もなく、健康には自信があった方だと思う。

ここ2年前から、父は痩せて、老いが進んで、心配になってきたので同居することにしました。

 

私は10年前から、もし父が亡くなったら、心細いなと思っていました。

生まれた時からずっといる両親がいなくなったら寂しいし、心細いです。

親がいれば、自分は子供でいられる気楽さもあったと思います。

私は結婚もしたことがなく、子供も出産していないから、ひとさまよりも、

精神面でどこかで子供のままの部分があると思います。

もう何ヶ月前から父の死を覚悟しているのですが、それでも涙が出てくることが度々あります。

 

母と私と兄は生まれも育ちも関西です。

だけど父は生まれは九州です。成人してから関西に移り住んでいます。

父には、九州男児らしいところがあったと思う。

口数が少なくて、弱いものには優しくて、

頑固で、曲げない性格。プライドも高く、男はこうあるべきものという考えもあったのではないかと思う。

 

両親は、父が60歳の定年になる前に離婚しました。熟年離婚

父は定年退職したあと、地元の九州へ単身で引っ越しました。

私も関西から九州へ引っ越すつもりでした。

父と娘、九州で死ぬまで暮らすのだろうと、ぼんやり考えていました。

私は九州で結婚相手を見つけて、九州に骨を埋めるつもりでした。

 

父が引っ越して落ち着いた2年後、私は仕事を辞めて九州へ引っ越しました。

九州で2年間、仕事をしながら父と同居していました。

九州で友達もできて、九州中を車で観光し、仕事もしながら、関西からも友達が遊びに来てくれたりして、温泉も大好きになりました。

 

しかしどこか、九州にいる自分がしっくりいかず、仕事を辞めるタイミングで、

関西に戻ることを決意しました。

当時、私が関西に戻ることを父は寂しそうにしていましたが、まだ父は60代で元気だったので、私はあまり心配せずに引っ越しました。

 

あれから約20年、お盆や年末年始、GWなど、年に1回から3回、九州へ帰省していました。

父が70歳を過ぎた頃には、かなり老いが進んでいましたが、まだまだ気力、体力は大丈夫のようでした。

 

父が70代後半の頃、私はスペイン巡礼に行きました。

父は痩せていたけれど、「90歳まで頑張って生きる」と言っていました。

スペイン巡礼に行くときは、九州の実家に寄ってから出発していたので、

空港まで父の車の運転で送ってもらったのがついこの前のことのように思えます。

父は私のスペイン巡礼のブログを読んでくれて、見守ってくれていました。

 

スペイン巡礼からも無事に帰国して、関西で仕事をまたし始めて、

たまに九州に帰省することを続けていたけれど、父が元気にしてくれているから

私は好きなこと、やりたいことを安心してできているんだろうなと思ったことがありました。

親が病気や入院していたら、海外旅行とか気軽に行けないし、行く気分になかなかなれないと思う。

 

父も子供に心配かけたくなくて、体調が多少悪くても、私が電話すればいつも「大丈夫。元気にしている。心配するな」と言ってくれた。

 

2019年の秋に、父は九州の家を処分して、関西に引っ越してきてくれた。

当初、父は住み慣れた家を離れるのをためらっていた。

父が九州に移住して直後に庭に植えた桜や梅の木も、2階のベランダの高さまで成長していたし、庭の手入れが好きだったと思う。

 

2018年には、父の体調に一時的な病が出たこと、私から見ても父は老いが進んできたように見えたので、毎週末は、父に電話をかけるようにしていた。

何を食べたのか、風邪は引いてないか、たわいない会話。

それまでは月に1回電話するかしないかだったけど、父の老いが心配になってからは、

毎週末電話するようにした。

そして、年に3回の長期休暇(年末年始、GW、お盆)は、必ず九州へ帰省するようにした。

 

兄と相談して、父を関西へ呼び寄せることを決めて、電話で説得を開始した。

車の運転を早くやめて欲しかったのも大きな理由だった。

父と同居するために、2019年の春には私は住む場所を探して、自分も引っ越しをしていたので、父を準備万端で迎えることができた。

当時の父はもうすでに、体がだるくて、痩せて、難病の前兆みたいなものを感じていたようだった。

食欲がなかったり、食べようとするけれど、食べられないと言っていた。

無理に食べると、消化が追いつかないのか、気分も悪そうだったから無理強いはできない。

お風呂も入るのを嫌がるようになった。お風呂に入ると、しんどくなるようだった。

デイサービスなどの介護サービスを申請しようか?それまでに病院で診断を受けてみようか?と提案しても、

「病院へ行っても治らないと思うから」と言い、いますぐに行かなくてもいいという結論になってしまっていた。

 

2020年1月、父は急激に体に衰えがきて、

それが老いなのか、病気らしきものなか、わからなかった。

でも本人が病院の受診をしないというのなら、まだ生活はできているから、様子を見つつ見守っていた。

 

2020年3月、父は杖がないと歩けないと言い出した。

杖を買いに行こう。その前に、原因を探るためにやっと「病院へ行く」と言ってくれた。

たくさん検査をして、父は疲れきっていた。

2週間後に、検査の結果を聞きに行く予定だった。

だけど、その前に、父が自力でトイレに行くことができなくなり、

呼吸不全を発症し、救急車を呼んで入院することになった。

それから一度も、帰宅できないままである。

マスク型の呼吸器がないと、生命を維持できない状態になった。

全ては難病が原因だった。

それから転院先の施設を決めて、春には無事に転院できた。

スタッフも親切な方が多くて、安心した。

 

とうとう、父の余命がわずかとなっている。

医師には面会が可能だったらさせてほしいとお願いしていた。

そして、面会をさせてくれた。

父は、1ヶ月前は、まだしっかりしていたが、

もう栄養が取れない状態なので、だいぶ意思疎通が難しくなっていた。

かなり痩せていた。

だけど、私と兄が面会に来たことはわかってくれたようだ。

 

父の痩せた体の胸に手を当てて、「お父さん」と呼びかけた。

うつらうつらしていた意識が、戻ってきて、私が来たことがわかった。

父の呼吸が大きくなった。

そして私の手のひらを当てた父の胸の部分が、熱を帯びたように温かくなった。

私の手に反応して、父の心拍数が大きくなった。

この反応は、不思議だった。

私の手のひらからビームのように目に見えないエネルギーが出たのかもしれないし、

父の体がそれを受けて、反応したように思えた。

父の手足にはすでに浮腫が出てきており、

手首から上半身は、もう病気のせいで痩せている。顔も、こけていた。

難病になっていなかったら、90歳まで元気に生きていられただろうにと

悔しい気持ちもあるけれど、80代まで元気に生きてくれているだけで感謝しかない。

 

これまで父との面会、オンライン面会、電話などで、お互い、伝えたいことは伝えきれていると思う。

 

6月ごろ、父は電話で

「お父さんな、いつ死んでも悔いはない。お前たちが元気だったらそれでいい」

と言ってくれた。

 

8月ごろ、父は電話で

「食欲がない。眠れない」と言われた時は、病気の進行が進んでいると感じた。

なんとか眠れるように、アロマオイルをひたしたハンカチを毎週末に届けるようにした。

 

父が電話で「ありがとうー」と言ってきた。

いつもなら「マスクしろよ。風邪ひくな。ちゃんと栄養とって、睡眠もとりなさい」とアドバイスをくれていたのに、「ありがとう」とだけ言ってくるのに、なんだか寂しさを感じた。

 

さらに「電話が持てなくなった。電話がなくても元気にしてるから心配するな」と言われた。

 

コロナで面会もできない上に、唯一の電話でのつながりを持てなくなってしまう寂しさに

襲われた。

 

9月下旬、電話で会話することもできなくなった。

そして、誤嚥性肺炎で、危篤状態にもなった。

それでも、父の生命力で今もまだ呼吸を続けて、生きてくれている。

 

私の人生、できれば家族の死とか向き合いたくないし、考えたくもない。

もう自分の大病の経験でいっぱいいっぱいだ。

でも必ず経験しないといけないテーマになっているようだ。

 

私は自分が20代の時に、大病をして死にかけたことがあるので、自分が健康で生きることが目標で、もう2度と病気になって入院とかしちゃいけないと思っていた。

自分も大変だけど、家族も大変そうだったから。

特に父の憔悴は、気の毒だった。

私も好き好んで病気になったわけではなかったけれど、父に大きなストレスをかけただろうし、もともと心配性の父を、思いきり弱々しくさせたのだろうと思う。

離婚、単身赴任などもあってか、晩年はずっと孤独だったに違いない。

無口であまり楽しそうにしないので、一人が好きそうにも思われるのだが、

弱音を吐けず、寂しがり屋でもあったのではないかと思う。

いつも好きな音楽、映画、テレビをみていた。

心の中は、豊かだったに違いない。

 

私は、親より先に死んではいけないと思っていた。

だから、これはこれで、目標を達成できている。

父がもうすぐ死を迎えるに当たり、私はまだ元気を続けられているから。