父のこと その2

私は四人家族だった。

父、母、兄、私。

 

※父のことの続きだけど、ほぼ自分の思い出のことを書いてます。

 

父は会社員で転勤があった。私が小学2年生になる前に、家族みんなで父の転勤先の仙台に引っ越した。

母は九州男児の父と結婚はしたけれど、家にじっとしているタイプではなく活動的で、

私が小さい頃からすでに仕事をしていた。

今なら単身赴任という選択も普通にあるだろうけれど、当時は、みんなで仙台にいくことに疑問はなかったと思う。

引っ越す前の関西での小学校では、私の担任は女性でピアノが得意な音楽の先生でした。

ホームルームのような時間に、担任から、3人の生徒が転校すること、そして私が引っ越す先の仙台という場所は3人の転校先の中で一番遠いところであることを、黒板に日本地図を書いて説明していたことを思い出す。

小学1年生の1年間しか通わなかったその学校は、ほとんど記憶にはないけれど、給食に鯨の肉の竜田揚げが出てくることがあって美味しかった。

鯨の竜田揚げは、給食のおかずの中で、ダントツに私の好物だった。自宅では鯨の肉とかは食べたことがなかったから。

関西の小学校だったから、みんな関西弁が普通だった。

ヒルが校内を放し飼いで散歩していたり、ニワトリを囲いの中で飼っていて、ひよこが産まれたら休み時間に見に行っていた。

給食は銀色のアルミのプレートに、コッペパン、牛乳瓶、おかずが2種類くらいだっただろうか。

テレビで昔の昭和の映像が映ることがあるけれど、みんなそんな感じの子供だった。

 

記憶を掘り返してみると、クラスに心臓病を患っている男子がいた。

名前は藤田くんだったと思う。

藤田くんは他の男子に比べると痩せていてお顔も小さかった。

今思うと、未熟児で生まれた子供だったのかもしれない。

だけどいつも朗らかな笑顔が印象的だった。大人しくて、優しそうな子だった。

あるとき、その子が入院した。担任は彼を元気づけるためにみんなでメッセージを書こうと言って、私も寄せ書きを書いたことを覚えている。

それから何週間か、時間の感覚が思い出せないが、何か月かもしれない。

しばらく経って、朝の朝礼前に担任が暗い顔で教室に入ってきた。

「みんなに伝えないといけないことがある。藤田くんが亡くなりました」ということを、涙ながらに話された。

小学校1年生、入学して一緒に過ごした日は、数える程度しかなかったと思う。

藤田くんは入院して、そのまま帰ってこなかった。

そのことは、仙台へ引っ越した時も、時々思い出すことがあった。

 

その担任はとても生徒思いで、私が仙台に引っ越した後も、手紙と一緒に、ピアノの曲を録音してテープを送ってくれた。

特段、私はえこひいきもされたこともなかった。みんなに対して生徒想いの担任だったのだろう。

後で、通信簿を見て、その担任のコメントが印象に残っている。

「動物好きな優しい気持ちが、友達に対しても現れていて優しい子」というようなことが書かれていた。

そんなことを見てくれる担任だったんだなあと思う。

そして本もプレゼントしてくれていた。

それは子供達の作文、詩のような、編集もされてないそのままの自然な文集だった。

それを読んでは、ジーンとくることもあったので、いい本だった。

仙台へ行かないといけない時は、まだまだ子供すぎたし、関西を離れたくないという気持ちもなかった。ただ、新しい場所へ引っ越すことの楽しみの方が大きかった。

 

仙台に引っ越してからの記憶を遡れば、父の車の運転で、家族四人でドライブからスタートした。

関西の団地に住んでいた時とは違って、仙台では庭付きの一戸建てを借家として住み始めた。

庭には井戸の跡があり、土で井戸の穴は埋められていた。そこにはラディッシュや大葉などの野菜を母が育てたりした。

池があって、水が張ってあり、フナが泳いでいた。

私が大きな石を池に落としてから、池に底にヒビが入り、水がたまらなくなり、魚たちを

絶滅させてしまった。だけど、それに対して両親から叱られたことはなかった。

まあ私が親の立場だったら、怒ってだろう。

「なんちゅうことしてくれんねん。せっかくの池を。なんで池に石を放り投げるねん。わけわからんことしてからに」と怒っただろうに。

私は故意に石を落としたのである。だけど、親には故意ではなかったように言ったのだろう。

 

仙台に行ってから、関西の子達と違うところも面白かった。

私の関西弁で笑う子もいて、そうかあ、仙台って関西から遠く離れてるんだなあって思った。

だからといって、転校生だからとか、方言が違うからとかでイジメられたことは一度もなかった。

父も言っていたが、仙台の人たちは最初は人見知りのような感じだったのに、親しくなってくるとものすごく優しい人たちだったと言っていた。

父も仙台で楽しい人生を送れたのだ。

 

2019年の秋、父と同居後、父とお茶をしている時だったか、

「来世はどこの国で生まれたいか?」と変な質問をしてみた。

父は「わからない」って答えた。

じゃあ、いつの時が一番楽しかった?いつの時に戻りたいか?って質問した。

「仙台」と答えた。

ふーーーんって私は言って、それ以上、深く聞くこともなかった。

でも今ならなるほどと思う。

仙台で過ごした7年間は、家族四人が揃っていたし、ジョンという名前の柴犬も登場して、

庭で草むしりや野菜を育ててみたり、車の洗車をしたり、庭で遊ぶ子供をいつでも見ることができた。そこには一家団欒があった。

雪が降ったら、雪かきをした。

杜の都、仙台という名にふさわしく、季節の変わり目は緑や森の香りで、四季がうつろうのを匂いを感じることができた。

「夏の匂いだ。夏が来る。」という具合。

赤とんぼがそら一面にたくさん飛んでいる光景があった。

雪が積もって、小さめのかまくらを作って、隣の家の子達とも遊んだ。

春には桜が咲いて、飼っていたハムスターが桜の花びらを食べていた。

運動会には両親も来てくれて、ゴザの上でお弁当を食べた。

父はいつもクールに澄ました表情をしていた。男はヘラヘラ笑っていたらいけないという昔からの自然な姿だったのだろう。

 

父が柿を買ってきて、皮を剥き出した。

家族は、突然の父の行動を黙って観察していた。

あまりにも黙々と自分の世界に入った動作だったので、声をかけずにいた。

紐に間隔を縦に空けて剥いた柿を結んで、軒下に3本ほどぶら下げた。

干し柿を作ったのだった。

母も、私たちもそれをみてポカーンとしていた。

父は口数が少ない九州男児

今思うと、父はその時に、幸せを感じていたんだろうなと思う。

 

私の8歳から14歳までを過ごした仙台は、家族がみんな健康で、友達もいてくれて、

大好きな犬も飼えて、庭で犬と遊び、自然が多い中で育った。

空気も水も綺麗な仙台だった。

父は、「お前の喘息が仙台に引っ越したら治ったもんな」と何度か言ったことがあった。

私は小児喘息を持っていて、夜になると咳が止まらないことがあった。

そんな時、母がお湯に蜂蜜を溶かしたものを飲ませてくれたら、咳がすぐに止まった。

小学校低学年でその症状はもう終わっていた。

ただ、仙台の寒さは厳しかったので、手の甲はアカギレたりもしたし、

雪の道の通学は、雪靴が必須だった。スパイクがついているショートブーツのようなものだ。

長靴では雪が凍って滑りやすくなっている道は危ないから、みんな雪靴を履いていた。

冬はスキー教室、スケート教室を学校が必ず開催するため、バスに乗って遠足気分で

スキーやスケートも体験していた。

スケート教室は嫌いだった。こけたら痛いし、スケート靴は合わないし、足の指はかじかむし。だけどスキーは楽しくて好きになった。

オリエンテーションとして近くの山や林をひたすら歩くこともあった。

男女2列になって、ひたすら歩くだけ。すみれが咲いていたり、

林の中に山菜がたくさん生えていたりと、キノコが生えていたりと

ただ眺めながら歩いて行くのは楽しかった。

小学校の研修旅行では、キャンプファイヤーもして、芋煮を作って食べたりもした。

泊まりの時のパジャマ姿の集合写真もいい思い出。

淡々と、自然と触れ合う機会をたくさん与えてくれた。

写生大会もあった。そこで好きな景色を鉛筆で下書きして、水彩絵具で描く。

絵で賞を受賞することもあり、嬉しかった。

縄跳び大会、バレーボール大会、体育の時間では跳び箱、バドミントン、バスケなどもいろいろあって、みんな下手くそで、わいわいやって楽しかった。上手な子がいればクラスのヒーロー、ヒロインになれた。

 

当時から、父と母の喧嘩というか対立はごくたまにあった。

だけど、それが将来の熟年離婚になるとは子供に知るよしもない。

父と母は11歳ほど歳が離れている上に、父は九州男児で頑固である。

そしてプライドが高い。

母は11歳も年下だったにもかかわらず、弟が二人いる長女で、しっかりもので、プライドも高い。

お互いが、自分が正しいと思っているので、ぶつかり合う。

夫婦は合わせ鏡のようで、似たもの同士だったりするといういうけれど、まさに、

合わせ鏡のように、子供のことも大事に思っているし、家族のことも大事に思っているのは同じだった。

だけれども、何かの拍子で、お互いのプライドにカチンとくることがあったりして、

お互い引かないから、喧嘩のように発展するのだろう。

お互いが敵意をむき出しにするかのように出したものって、

後でなかったことにできないというのが悲劇を生む。

覆水盆に返らず。

若い時は、血の気盛んだし、勢いで言い負かすことや勝てる自信もある。

止めようとする思慮深さが足りなくて、感情に任せて相手に攻撃を与える。

恨みつらみは、どちらにも、溜まっていく。

誰のために、働いているのだ。

誰のために、仕事をしているのだ。

誰のために、家事をしているのだ。

家庭を持つ難しさは、自分の道楽のためだけに仕事をして、気ままに生きることが難しくなる。

家庭を持つ人にも苦しいことはあるし、

家庭を持ちたいけど、持てない人にも苦しみがある。

家庭を持ちたくないから、自分責任100で生きてますという人もいる。

家庭を持ちたいから、持ったけれど、幸せじゃなかったという人もいる。

何を選んでも苦しいこともあるし、幸せもあるし、

比較できないのだけれど、

私は、父が今年の6月ごろに電話で言ってくれたように

「お父さんな、いつ死んでも悔いはない。」という言葉に救われる。

 

東京にいる霊能者の方に、過去世も来世もみれる女性がいる。

その人から、私と父は、二つ前の過去生で、日本で夫婦だったと知った。

父はその人生で、戦死だった。

私はその人生で、二人の息子がいて、病死だった。最期は東京に住んでいたらしい。

だからなのか、なぜか東京へ行きたい気持ちがたまーにあったりする。

きっとその人生での東京のどこかに無意識に郷愁を感じるところがあるのかもしれない。

ちなみに、母との過去生でも東京が出てきた。

その時の母は私の四人の子供の長女だった。

兄は、私の弟だった過去生があった。南米のボリビアだった。

信じるも信じないも自由。

でも私は普通に信じているところが、事実だと勝手に思っている。

 

書き忘れていたが、仙台の給食はもっと美味しかった。

週に2回は、米飯の日があり、アルミのお弁当箱のような蓋付きのケースに炊き立ての

ツヤツヤの白米が入っている。

おこげが少しあった時は、喜んで「先生、おこげがある」と言って、みんなが楽しく食べた。

少食で痩せ型の私だったが、小学校高学年からたくさん食べられるようになり、

残さずに食べれるようになっていた。

パンの日は、食パン2枚やコッペパンだった。食パンの日はマーガリンに、いちごジャムや

マーマレードジャムがついてくる。マーガリンの上にジャムを塗って頬張るのが美味しかった。

メインのおかずでは八宝菜、うどん、カレー、みたいなのもあったけれど、八宝菜の具で、うずらの卵が子供たちの好物だったので、給食当番は、一人2個を平等に入れるのに頑張っていた。

 

冷凍みかんが出たこともあって、甘くてひんやりして美味しかった。

牛乳瓶ではなく、三角形の牛乳パックだった。懐かしい。

 

ぜんざいが出た時は、おかわりする子が続出だった。

だけど、私は子供の頃は和菓子が好きでもなかったので、あんことか避けていた。

自由でおおらかな仙台の学校の時間を思い出す。

 

外で遊ぶ時は、小学生の頃はゴム跳びに夢中だった。

家の中でも、学校の休み時間でも、私は友達数人とゴム跳びをしていた。

 

学校帰りにそのまま友達の家に寄って行くこともあった。

友達のお母さんがクッキーを作るところだったので、みんなで参加してクッキーを初めてこねて型取り、焼いてもらえた。初めての焼き立てのクッキーは美味しくて今でもその味を思い出せる。

 

別の友達の家に行った時は、おばあさんが温かいうどんを作って出してくれた。

甘めの出汁に細めのうどんがものすごく美味しくて、今でも思い出す。

その子も転校生だったから、またすぐに転校してしまったけれど、

とても気さくで明るくて、私に趣味の手芸で作っているものを見せてくれた。

 

中学生になると、おしゃれをしたり、好きな男子は誰かなど話を女子の中だけでしたり、

仙台の街へ遊びに行って、雑貨や文具を見たりするのが楽しくなってきた。

映画を見に行くこともあった。家族と見に行ったレイダース。

友達と見に行ったグレムリン。サンタクロース。

  

中学校では親友4人組がいつの間にかできて、いつも4人でおしゃべりした。

名前は、あだ名で呼び合った。

まめ、まなみやん、つんこ。

時には、まめと二人で遊び、まなみやんと二人で遊び、つんことは交換日記と交換テープまでした。交換テープは、ラジオのDJになった気分で、その日のこととか一人で話すことをラジカセでテープに録音して、つんこと交換した。

 

まめとつんこは勉強ができる子だった。二人は同じ高校へ進学した。

まなみやんはアートやファッションなどに関心があり、そういう高校を選んだ。

私が中学2年生で父の転勤で関西に戻った後は、みんな文通を続けてくれた。

私は関西の高校へ通った。

すっかり仙台の生活が体にも馴染んでいただけに、急に関西へ引き戻されることに

すごく寂しかったし、親友と離れるのが一番辛かった。

なぜ、このまま仙台に住めないのだろうと、運命に文句を言いたい気分だった。

自然が多くて、まだ中学2年だから学校でも男女とも仲良くて、冗談が通じ合い、笑うことが多かった。

まだ小学生の延長上のように、みんな子供の頃から存在を知っているし、家も近所だったりで、気心も知れていた。

そこにはライバル心、競争心も特になく、誰かを蹴落とさないとという焦りも不安も何もなかった。

 

仙台の住宅街に、丘や小山、公園などがあり、いつもの見慣れた風景に安心していた。

どこか遠くに行きたいという気持ちはほとんどなかった。

それだけ住みやすかったし、性に合ったのだろう。

母でさえも、仙台に自分たちの家を買って住みたいというようになっていた。

母だけは、最後まで関西弁が抜け切らず、関西人気質が強いだろうに、きっと、

家族にとって、仙台は安心して、最後まで暮らせるいい場所だったに違いない。

 

私には親友がいてくれて、まめとレベッカのコンサートに一緒に行ったこともいい思い出。

ここまで生まれた土地以外で、離れたくないって思えたのは仙台が初めてだった。

九州は、しっくりこなかった。私がここにずっと住むという気持ちが湧かなかった。

それは仙台よりも九州が劣っているからということでは決してなくて、

そこに自分の生活、子供時代、友達、学校へ通ったという歴史がないことが大きいと思う。

大人になってから、移住して、確かに仕事もして、友達もできたけれど、

まだ心から無条件で開いた関係にはなれていなかった。

どこかでジャッジして判断している、比較している自分があった。

だから、自分の問題であって、土地の問題ではなかったのだろう。

住めば都というのはよく言ったものだけど。

これは国内だけに限らず、海外でビビビとくるひともいる。そして移住しちゃう日本人も多い。

それは過去生からの縁だったり、そこで出会うべき人、ことがあったりと、すでに決まっていたりするところもあると思う。

最後は、父も九州から関西に引っ越してきてくれた。

父にとっても九州は生まれ土地であっても、最期の土地ではなかった。

そこに、家族を作った関西、好きだった仙台の生活。

それらは父の人生にとっても大きな転機だったのだろうと思う。