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映画日記:沈黙 ー サイレンス(2016年公開)

映画

こんにちは。ジョーです。

今回の映画日記は、「沈黙」です。

 

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満員でした。

ギリギリで空席が3席残っており、鑑賞することができました。

 

遠藤周作の原作「沈黙」は読んでないです。

この映画を観た後の感想は、「原作を読みたい」でした。

映画のおかげで、私が苦手な歴史を映像として表現してくれるので、視野を広げてくれます。

 

ポルトガルからきた宣教師の目線で日本が描かれており、日本人て、手強い人種だったんだろうなあと思いました。

宗教弾圧って学校の教科書にあったと思うけど、じゃあいったい誰がどういうことして、どんな風に弾圧が行われたのかとかわからないままでした。

 

以下、ネタバレです。

 

 

 

当時のことを知る人は、現在、誰も生存していない。

もし、当時のことを映画で再現しましょうとなった場合、

キリスト教信者の方が作る映画と、

仏教を信仰している方が作る映画は、

別物になるように思える。

 

だけど、この映画はバランスよく描かれていると思う。

どちらかに偏った考えを押し付けられている感じがしなかった。

(私はヨガクラスに通っていた時、インド的な考え方、インドから始まった仏教の考え方を教えてもらうことが多かったので、この映画の仏教の部分に同意してしまう)

 

若い宣教師・ロドリゴ神父の未熟な部分や、感情的になりコントロールができないところなど見せます。

 

イッセー尾形が演じる「井上筑後守 」は、宣教師の布教する宗教が日本を混乱させるのではないかと恐れ、キリスト教勢力を拡大される前に火消しを行っています。

 

浅野忠信が演じる通辞のセリフの内容はとてもいいことを言っていると思うので、何度も聞きたいセリフでした。

通辞は、渡辺謙の配役が決まっていたそうですが、撮影スケジュールのため浅野氏になったそうです。

浅野忠信がとてもいい感じでした。クールです。心根は優しいんだろうけど、若い宣教師に対して「わかってないな。お前は」みたいに諭すようなシーンがありますが、浅野氏の素でやってる感が出てます。

 

ロドリゴ神父は、純粋過ぎる。。

キリスト教こそ真理であると盲信する青二才の若い宣教師に対して、

既に棄教し仏教に改宗したリーアム・ニーソンが演じる元宣教師が違う考えを示します。

彼のセリフ、言葉は少ないですが、きっと

「布教活動で自分たちは何かを見落としているのではないか?」

「神がイエス・キリストだけで唯一の神と信じることが本当に真理なのか」というようなことを問いかけてるように思えました。

 

ロドリゴ神父は、すぐにはその問いかけを受け入れません。

今まで自分を支えてきた信念を急に「なんかね、やり方がね、間違ってたんだよ」と言われて、「あーそうですか」なんて一瞬で切り替えなんてできない。

 

「ねえ、若い宣教師よ。布教活動こそが神への愛、神への信仰とばかりになってきちゃってない?

だんだん罪の無い人たちを危険な目に遭わせちゃうことになって、たくさんの人たちが殺されたんだよ。」

と思わされるような感じでした。

 

布教という活動によって、信仰に目覚める農民たちが増えたのはいいだろうし、農民たちから儀礼として告解を聞いて欲しいと必要とされている。必要とされているから自分はこれでいいんだ。正しいんだと思いたい。

 

でも、「何が何でも神に背いてはいけないとか、神を冒涜する行為をしてはいけないとか、それは信仰を捨てたということを意味するから、それなら死んだ方がいいんだよ。死んだら天国に行けるからね。」みたいに、危険な解釈になっていったんじゃない?

 

そういう危険な解釈って、暴走してしまうと怖い。

信仰しようとする者は、その人個人の苦しみや満たされない部分を何かで埋めようとする。貧しい生活、過酷な労働を強いられ、貧富の差も見せつけられる。

そんな時に、布教活動にきたキリスト教にすがろうとしたのか。

何かにすがり、こんな苦しい人生を送るのはどういう意味があるのだろう。

神様、教えてください。

何か、私たちは、間違っていたのでしょうか。

強く信仰すれば、神様は助けてくれるの?

いつかちゃんと報われるの?

 

そんな農民たちに、神が本当に伝えたいこと、キリスト教でも仏教でも他の宗教でも、ゆがんでしまったんじゃないのだろうか。

 

 

通辞から、「若い宣教師に説明してくれよ」と言われて、元宣教師が話し始めた。

 

神ってね、日本ではね、大日っていうんだよ。大日って何かわかるかい?太陽のことなんだよ。日本はね、太陽や自然の万物をね、神として敬うんだよ。」

 

脚色してますが、このようなセリフでした。 

 

キリスト教より、仏教の方が上って言ってるわけじゃないんだけど、そういう考え方もあるでしょうと言っている。

 

イッセー尾形氏のセリフの中の例え話がわかりやすい

(江戸の大名には4人の側室がいた。でもお互いを嫉妬ばかりして喧嘩が絶えない。そこで大名は4人の側室を全員捨てた話)

 

その話の内容には納得した若い宣教師。自分もその立場なら、側室4人は捨てるという判断は最もですと同意した。

 

しかしイッセー尾形氏は言う。

「4人の側室はね、あんたらのことなんだよ。

イギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルがやってきてね、トラブルを起こすんだよ。そして日本はつぶれちゃうんだよ。」

だからね、殺しはしないからさ、大人しくしてよ。信者を増やそうとしないでよ。

話せばわかるんだから。

みたい感じだと思う。

 

 

 

歴史では、日本は江戸幕府によって本格的な鎖国に入っていた。

日本にはキリスト教は根付かないという言葉。

こういう風なことがあったのだろうと勉強になりました。

 

その頃からさらに1000年ほど前、飛鳥時代には既に仏教が日本に伝わり、馴染んでいた。

日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代552年欽明天皇13年)に百済聖王聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている

元宣教師と通辞は、「君ね、改宗とか、キリスト教を捨てるとか、そういうことに反応してパニックになるんじゃなくて、本質を見極めよ」と、言ってるように受け取れた。

 

宗派なんて単なる形でしょ。

表現が違うだけでしょ。

みんな宇宙から生まれて来た、宇宙の子だよね。

こだわるなよ。

 

こだわるから、固執しようとするから、執着するから、苦しみが続くんじゃない?

 

手放しなさい。

そして

受け入れなさい。

神は自分の中にある。

みんなが神様でもあるんだよ。

 

と言われているように受け取れた。

 

 

イッセー尾形氏が演じる井上さまの仕草や表情、話し方がとても出来上がっていた。

あの老人の演技は、外国人の監督では指示できないと思うから、イッセーさんのオリジナルの演技なのか、日本側の演出なのか、どうなんだろうって思いました。

 

 

 「沈黙」というタイトル

ロドリゴ神父は、

「なぜ神は沈黙しているだ。なぜ、こんなにも人は苦しまなくてはいけないのか。」

神父は「神が助けてくれず、沈黙している」と思う。

 

しかし、自分自身の中に神は宿っていると言われる。

自分がエゴやプライドを捨てて、エゴの声を黙らせて、沈黙した時、

聞こえなかった神の声が聞こえてきた。

 

神の声は、自分の心、魂の中から聞こえた。

神は愛。

愛は神。

私たちは愛の存在。

私たちは神でもあるということ。

神=愛=私たち(イコール)

自分のエゴやプライドを捨てた時、

自分のことよりも、今、殺されようとしている命を助けようとしたとき、

神の声が聞こえた。

 

神は、ずっとささやいていたが、

自分が聞く方法を知らなかっただけなのかも。

 

自分が聞こうとするとき、

エゴを捨てて、執着を手放して、

固執しているものやこだわりを捨てないと、聞こえないのかもしれない。

 

ロドリゴ神父の最後は、穏やかでした。

日本で平和に暮らしていく為に、表向きは棄教をしたことにしたが、心の中ではキリスト教の信仰は捨てていなかったというようなエンディングでした。

自分がどこにいても、どこに住んでいようとも、違う信仰がされている国でいようとも、自分が信じたい、信仰したい教えを信じればいい。

心の中で信仰すればいい。

誰かに強要させる必要もない。

誰かを変えようとする必要もない。

 

リズブルボーの本でも、「他者を変えようとすることは、愛ではない」と言っています。

愛とは、判断しないこと。

変えようとしないこと。

ありのままを受け入れること。

 

異質なものと出会う。本質を知る。

異質なものと出会う。

なんなんだ。エゴはパニックになったりする。

排除せよ。危険だ。敵だと見なす。

怖い。攻撃されたらどうしよう。不安だと思う。

 

どのように感じてどう行動するのか試されている。

成長の為には、異質なものがでてくるからこそ、お互いを通して、自分自身を知ることができる。

相手を通して、自分を知る。

自分とは何かと探求する。

自分の本質は何かと思う。

真理とは何。

本質とは何。

 

本質を知れば、真理を知れば、

敵だと見なしていた相手を、攻撃なんてしなくてもいいと思える。

お互い、話し合い、歩み寄り、解決に向けることができる。

 

 

 

ロドリゴ神父は日本まで来たことで、自分は正しいと思っていたことが土台から崩され、葛藤に苦しんだりした。

そして信仰とは何かを、真理とは何かを、考えさせられることにつながった。

 

そのように思いました。

 

読んで頂きありがとうございました。